江別産煉瓦の歩みとこれから② ~北海道産煉瓦と江別産煉瓦の歴史~

2021.11.1(mon)

日本の煉瓦の歴史は江戸時代末期、日本近海に出没が増え始めた外国船へ対抗する為に、洋式砲を製造する為の反射炉建設に必要となる耐火煉瓦の国産化に成功する所から始まります。その後、文久元年に建設された長崎製鉄所で使用された赤煉瓦が日本初の建築煉瓦と言われています。この煉瓦はオランダ人海軍機関将校ハルデスの指導のもと、長崎の原料で日本の瓦職人により製造されました。その後も建築煉瓦は横須賀製鉄所や旧富岡製糸所の建設、大火による不燃化都市計画として銀座煉瓦街にも使用され、当時は木造建築物が主であった中、火事に強い煉瓦建築物は日本の近代化と共に増えて行きました。

北海道の煉瓦の歴史は古く、弘化4年に茂辺地村(現在の北斗市)で瓦を製造した記録が残っています。その後、北海道第1号となる煉瓦工場として明治5年に開拓使が国営の煉瓦工場である「茂辺地煉瓦石製造所」を建設しました。函館は大火が多く建築物の不燃化対策として煉瓦は非常に重宝され、中断期を挟み明治14年まで製造されましたが、都市部が札幌に移行していく事による輸送費の問題や原料及び燃料の確保も困難となり生産中止となりました。

 

 

その後、開拓使の本拠地が函館から札幌へと移行され、明治10年から明治20年代にかけ、札幌に煉瓦工場が当時の白石村や月寒村を中心に次々創業します。道内初の鉄道路線となる幌内鉄道の木造橋梁を火災による消失から守る為の煉瓦による橋梁製作や、倉庫などの建築物にも煉瓦が使用され、煉瓦の需要は増えて行きました。中でも、操業が長く技術的にも優れていたのが明治17年創業の「鈴木煉瓦製造所場」です。鉄道施設用の他、旧北海道庁舎や札幌製糖工場(現サッポロビール博物館)にも鈴木煉瓦製造所の煉瓦が主に使用され、札幌のまちづくりに大きく貢献しました。しかし、野幌地域に大規模な煉瓦工場が開設されるなど、様々な要因が重なり大正末期に閉鎖となりました。

 

 

 

 

写真1
ー 旧開拓使函館支庁書籍庫 明治13年建造 明治7年から明治9年に茂辺地煉瓦石製造所で製造された煉瓦が使用されている。ー

江別市での煉瓦製造は明治24年「江別太煉瓦石工場」が最初とされ、その後明治31年に野幌地域で本格的に煉瓦製造が始まりました。野幌地域は、

 

①良質な原材料が入手出来た事
②燃料である石炭が近くの石狩炭田より輸送出来た事
③煉瓦の素地を天日乾燥させる為の広い場所を確保出来た事
④大消費地である、小樽、札幌が近い事

 

により、一大製造地域となりました。やがて、大正から昭和にかけ現業の米澤煉瓦㈱を始めとして煉瓦工場が次々と創業し、昭和30年代には野幌地域に14社の煉瓦工場が軒を連ね製造していました。煉瓦の需要は鉄道用の橋梁、トンネル、倉庫の建設等に使用され増えて行きますが、明治の末期から大正時代にかけ徐々に減少して行きます。鉄道用の煉瓦需要の減少やコンクリート建築物の普及、また大正12年に起きた関東大震災で煉瓦建築物の倒壊が目立った事が大きく影響したと言われました。

 

しかし、北海道では建築材として引き続き使用され続けます。理由として煉瓦は腐らず、燃えない不燃性であり、耐寒建築物に適するとされ、サイロや牛舎などの酪農、牧畜建設に使用された事によります。また、第二次世界大戦後にアメリカ合衆国を中心とした連合軍が北海道に進駐する際に必要となった兵舎の建設に煉瓦が使用された事も需要拡大に繋がりました。その後も石炭増産による炭鉱住宅や小中学校の新増築にも煉瓦が使用された事により、煉瓦の高い需要は維持されました。しかし、昭和25年頃になると安くて強固なコンクリートを始めとした、新しい建築材に押され煉瓦需要はどんどん低迷して行き、14社あった煉瓦工場も昭和54年頃には7社となり、令和3年現在は2社となってしまいました。

 

厳しい状況を打開する為、窯業業界は窯炉設備の近代化、通年操業、新商品開発に取り組みます。昭和35年頃より新しい製造機械として、大量の煉瓦を台車に載せ、余熱、高温、冷却帯へと連続的に焼く窯のトンネルキルンが導入され、生産性が高まり煉瓦の強度を上げる事も出来る様になりました。その後も粘土を短時間で安定した成型を可能にした真空土練機や、窯の余熱を利用した屋内乾燥施設の導入により冬期間の煉瓦製造が可能となるなど、煉瓦製造は格段と進歩しました。また、製造技術の進歩と共に新製品の開発も行われ、従来の赤煉瓦以外に、窯に送り込む酸素量を減らし焼成した赤黒の濃い還元色や酸素量を増やし焼成した赤色の濃い焼過色、原料にマンガンを加えた黒色のマンガン色など、色のバリエーションが増えていきました。。また、米澤煉瓦と当社の取引のきっかけとなった路盤用煉瓦として開発したクロス型や六角型、煉瓦職人では無くても簡単で強固に煉瓦を積み上げ出来るように配筋の為の穴を開けたスーパーレンガなど、色々な形状の煉瓦も開発され使用用途が広がった煉瓦は民間及び公共施設の外構、公共公園等にも使われる様になり、需要は徐々に回復して行きました。

 

 

 

 

 

次回は江別煉瓦の現在とこれからです

 

 

 

 

<参考文献>

・「野幌窯業史」 松下亘 著 野幌窯業協会 (1980年)

・「江別市内における煉瓦産業120年間の変換」 水野信太郎 著 人間福祉研究 13巻
 (2010年) htpp://id.nii.ac.jp/1136/00000305/

・「江別市におけるれんがの主産地形成と生産維持体制」 和田郁奈 著 地理学論集 No84
     (2009年)     https://www.jstage.jst.go.jp

・  北斗市歴史年表 開拓使茂辺地煉瓦石製造所      
   https://www/city.hokuto.hokkaido.jp/bunkazai/index.htm

・「白石レンガ」の歴史 ~鈴木煉瓦製造所の軌跡~ 広報さっぽろ 2012年 3月号

 

写真2
ー「昭和10年頃 煉瓦工場風景」 提供:米澤煉瓦㈱ ー
写真3
ー「昭和30年代頃 ホフマン式窯」 提供:米澤煉瓦㈱ ー
写真4
ー「昭和40年代頃~現在 トンネルキルン窯」 提供:米澤煉瓦 ー